客が俺だけの店で、店員と2時間喋った夏の終わりの夜
八月の終わり、新宿三丁目の雑居ビルの三階にあるバーの扉を開けたら、客が一人もいなかった。出るか座るかで数秒迷って座って、店員のウタ(29)と二時間喋って帰った夜の話。氷を割らせてもらって二回とも飛ばした話と、常連の定義を教わった話。
そのバーの店員(オーナーではない)PLACE新宿
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木の扉を引いた瞬間に、この店に客が一人もいないことが分かった。カウンターの手前から奥まで、椅子の背が全部おなじ角度でこっちを向いて揃ってる。座面がへこんだままの椅子も、飲みかけのグラスが置かれた席も、一つもない。奥のほうで氷を削ってた店員が顔を上げて「いらっしゃいませ」と言った。俺は扉のノブを握ったまま、たぶん三秒くらい固まってた。
八月の終わりの月曜、新宿三丁目の雑居ビルの三階。奥の店員は氷から手を離さないまま、こっちが決めるのを待ってる。俺は扉を半分開けた格好のまま、店の中の音を探してた。人の声もグラスの音もない。あるのは製氷機の低い唸りと、後ろの階段から追いかけてくる外の熱だけだった。
扉の内側で、出るか座るかを迷った
バー一人飲みの入口、新宿での空気、会った後の動きまで。場面ごとの温度を拾いながら、アキの現場感をそのまま読む記事です。
その日は夕方から打ち合わせが二本あって、終わったのが二十時過ぎだった。地下鉄の階段を降りる途中でこめかみに一筋落ちて、手の甲で拭ったら、また同じところを次のが落ちてきた。この時期の新宿は、地上より地下のほうが暑い。誰かと飲む約束もないし、まっすぐ帰る気にもならなくて、三丁目の細い路地を意味もなくうろうろしてた。飲み屋の看板の光を一個ずつ見ながら歩いてるだけの、一銭にもならない時間のやつ。
で、雑居ビルの入口に、手のひらくらいの真鍮のプレートが出てるのを見つけた。店名と、営業時間と、三階、とだけ。バーですとも、女性に人気とも、何も書いてない。エレベーターはなくて、踊り場の電球が一個切れかけてる階段を上がっていく。二階が事務所で、三階が店。扉の前でちょっと耳を澄ませたけど、中の音は何も聞こえなかった。この時点で俺、「防音しっかりしてんな、満席かもな」くらいのことを考えてた。完全に逆だった。
入ってみたら、カウンターだけの細長い店だった。奥行きがあって、幅がない。天井が低くて、照明は手元だけ落としてある。棚のボトルはラベルがこっちを向いて整列してて、カウンターの木は継ぎ目が分からないくらい磨いてある。誰かが一日ここを整えて、そのまま誰も来てない、っていう状態が目に見えてた。冷房の風がカウンターの上を横に流れてて、汗が引くのと同時に鳥肌が立った。

あの、やってます…よね?
やってます(笑)どうぞ、好きなところで


好きなところって言われても、今日は全部が好きなところじゃん
たしかに

ここで一瞬、出ようかと思ったのは本当。客ゼロの店って、入った瞬間に「今日いちばんの出来事」になっちゃうんだよな。俺が座れば、この夜の店の売上も会話も全部俺のせいになる。逃げ場がない。扉のノブにまだ手がかかってて、「あ、すいません人と待ち合わせで」って言えば三秒で出られる位置だった。

どこに座っても「わざわざそこを選んだ人」になるのがきついんだよ、ああいうの

客ゼロって、実質貸切っすよね

言い方。笑 貸切は金払ってやってもらうやつな。こっちはただの不人気時間だから
結局、入口から三つ目に座った。奥の席は落ち着くけど逃げ場がなさすぎるし、入口すぐは「すぐ帰る気です」が出る。三つ目は、店の人の立ち位置とちょうど正面がずれてて、目を合わせ続けなくていい。座ってからスマホを一回だけ確認して、そのままポケットに戻した。この店でスマホをいじってる自分は、たぶんちょっとダサいと思った。
一杯目が来るまでが、いちばん長かった
メニューはなかった。カウンターに置かれたのは水とおしぼりだけで、あとは口頭。この手の店は最初にチャージが乗るのが普通で、この日は千円ちょっと、一杯が千円台後半だった(金額は俺が行った時点の話なんで、最新はその店で確かめてくれ)。値段を先に聞ける空気かどうかで店の性格が分かるんだけど、ここは聞いても嫌な顔をしなさそうな感じだった。
外が暑すぎたんで、一杯目は炭酸の入ったやつがいい、とだけ言った。
じゃあジンソーダとかどうですか。今日みたいな日はよく出ますよ


よく出ますよって、今日俺しかいないじゃん
……先週の話です(笑)

作りはじめると、ウタの動きから雑談が消えた。グラスを冷やして、氷を入れて、量って、注いで、混ぜる。全部の工程で音が一回ずつしか鳴らない。二回鳴る人と一回で終わる人がいて、一回で終わる人はだいたい速い。名前も歳もまだ知らない段階で、俺はこの人の手つきだけ先に信用してた。
で、その手元を見てる時間が、めちゃくちゃ長く感じた。話しかけるタイミングが分からない。客が他にいれば店内の音でごまかせるのに、今日は俺が黙ると店が本当に無音になる。冷蔵庫のモーターの音まで聞こえる。ここで無理に喋りかけると、間違いなく「間を持たせようとしてる人」になる。かといって黙ってると、それはそれで感じが悪い。膝の上で手を組んだり解いたりしてた。三十いくつにもなって、初めて入った店でこれ。
解けたのは、しょうもないきっかけだった。おしぼりを取ったら、これが想像の倍冷たくて、声が出た。

うわ、冷たっ
冷やしすぎですかね。夏の間だけこれなんですけど


いや最高。……今の「うわ」、店にめちゃくちゃ響いたな
響きました(笑)

この「響きました(笑)」で、空気が一段ゆるんだ。気の利いたことを言ったから解けたんじゃなくて、俺が勝手に出した変な声を拾ってもらえたから解けた。用意してきた会話は、俺の場合だいたい効かない。出されたジンソーダは炭酸がきつめで、汗の引いた体にちょうど痛かった。
前に八席のカウンターで喋った夜は、俺と相手の間にマスターが立ってた。あのときは店の空気そのものが「静かにしててね」って言ってて、声を張った時点で負けだった。二つ隣に座ってた編集者と喋った日のことなんだけど、今日はその空気を作る客が俺以外に一人もいない。静かにしててね、が誰にも向けられてない店って、こんなに喋りやすいのかと思った。
いつもこんなに静かなのか聞いたら、月曜はたまにこうなる、との返事だった。お盆が明けて一週間、この辺の店はどこも人の入りが読めないらしい。
氷を割る音で、話が区切られる
名前はウタ。歳は二十九。この店の店員で、オーナーは別にいる。オーナーは週の後半だけ入っていて、平日の頭はウタが一人で回してるらしい。俺が来る前もずっと一人で、氷を削ってたわけだ。ボトルの棚の位置も、グラスの並びも、全部この人の手が決めてる時間帯なんだと思うと、店の整いすぎ具合にも納得がいった。
さっきからずっと削ってるその氷、何個いるんですか、と聞いた。
明日の分です。今日の分は、もう余ってます


余らせた原因、俺か
(笑)お客さんのせいではないです

で、喋ってるうちに、この人の変な癖に気づいた。俺が話してる途中で、必ず一回、コッ、って音が入る。手元でアイスピックの先を氷に置いて、体重を少しだけ乗せる音。その音が入ると、俺の話が一回そこで区切れる。文の途中でも容赦なく入る。

で、その打ち合わせ、二本目が予定の倍に延びて、しかも一本目は先方が——
コッ。
俺が何か言うより先に、向こうが手を止めないまま口を開いた。
これ癖なんです。言われる前に言っときますね


まだ何も言ってないんだが
言いそうな顔でした(笑)手が先に動くんですよ。理由は訊かないでください


訊くなって先に言われたの、初めてだわ
これで訊けないでしょう(笑)

最初は「話ちゃんと聞いてる?」と思ったんだけど、途中から逆になった。コッ、が入るたびに俺は一回黙る。黙ると、次に何を言うか一瞬考える。その一瞬があるせいで、いつもより変な方向に話が転がっていった。愚痴のつもりで始めた打ち合わせの話が、気づいたら中学のときに部活を辞めた話になってた。相槌の代わりに音を置かれると、こっちの喋りの速度が勝手に落ちる。うるさい店で大声で喋ってるときには、絶対に出てこない話だった。
ウタのほうは、自分の話をあんまり広げない人だった。この仕事の前は昼の職場にいて、今はここ、という以上のことは言わない。訊くなと先に言われてる手前、こっちも別のところを掘るしかなくて、話は自然と店の客のほうに寄っていった。

常連ってどのくらい来ると常連になんの。週一とか?
回数じゃないですよ。二回目に来て、前と同じもの頼む人


それだけで覚えるんだ
覚えます。三ヶ月空いても覚えてます(笑)

この答えが、俺はけっこう好きだった。通った回数を積み上げて認めてもらう、みたいな話じゃない。同じものをもう一回頼むかどうかで、勝手に向こうの記憶に入る。名前を名乗るより先に、注文で覚えられていくっていうのが、この商売っぽくていいなと思った。
あと、途中で一回だけ、店が完全な無音になった瞬間があった。かかってた曲が終わって、次が始まるまでの数秒。冷房の音も、ちょうど止まってた。ああいう無音を怖くない場所って限られてて、俺は私語厳禁のジャズ喫茶で一つ隣になった子と喋った回で一回それを味わってる。あそこは音がかかってる間は喋らないのがルールで、マスターが盤を裏返す数十秒の無音だけが、隣に一言だけ返していい時間だった。この店のはその逆で、無音のほうが事故みたいなもん。二人して天井のスピーカーを見上げてから笑った。
真似したら、氷がカウンターに飛んだ
二杯目を頼んだあたりで、俺が余計なことを言い出した。さっきから目の前でずっとやられてる作業を、自分でもやってみたくなったやつ。丸い氷を作るために、四角い塊の角を落としていく工程。ウタの手だと、コッ、で角が一個きれいに外れる。

それ、俺もやってみたい
……いいですけど。手、刺しますよ


脅しが具体的なんだよ
本当のことです(笑)

カウンターの上に布巾を敷いて、その上に氷の塊を置いてくれた。渡されたアイスピックは思ってたより軽くて、先だけがやたら鋭い。持ち方はこう、押し込まないで置くだけ、氷を支えてる手はここに置かないで、と一個ずつ言われた。この店で刃物みたいなものを客に持たせるのは、たぶん客が俺しかいない日だけの話で、他の客がいたらこの遊びは絶対に成立してない。

置く感じ。……こう?
もうちょっと弱くていいです

で、弱くできなかった。ガッ、って鈍い音がして、角が外れる代わりに表面が白く砕けて、細かい欠片がカウンターの上に散った。一個は俺のシャツの襟から入って、鎖骨のあたりで溶けた。

うわ、飛んだ
飛びましたね(笑)


シャツの中に入った。冷た
……拭きます?


自分でやる。笑
布巾を借りて自分で拭いた。二回目も同じように飛ばして、三回目に手を伸ばしたら「もういいです」って言われてアイスピックを回収された。二回で見切られた。ウタが同じ塊を持ち直して、コッ、と一回。角が一個、きれいに外れて布巾の上を転がっていった。俺のときは音が二段階あって、あの人がやると一段階で終わる。同じ道具で同じ氷を叩いてるのに、出る音がここまで違うのが普通に面白かった。

氷、飛ばしたんすか。笑

二回やって二回とも飛ばした。三回目は取り上げられた
この失敗の何がよかったって、そのあと三十分くらい、俺が完全に「下手な人」の立場で喋れたこと。バーのカウンターで、客の側が教わる側に回る場面ってあんまりない。それまでは俺が仕事の愚痴を喋って向こうが聞く、っていう形だったのが、氷を挟んだ瞬間に立場が入れ替わった。カウンターの上に散った欠片を二人で拭きながら、どこで力が入ったかの反省会をしてた。
「普段は、どうやって人と会ってるんですか」
グラスを拭きながら、ウタが手を止めずにそう聞いてきた。世間話の流れで出てきた質問で、深い意味はなかったと思う。ただ、その前に一個、こっちが焦る観察をされてた。
一人で来る人って、だいたい仕事の帰りなんですけど。お客さん、そういう感じじゃないですよね


なんで分かるの
座り方が、急いでないんで


見られてんな…。打ち合わせは終わってるけど、帰り道ではないです
(笑)で、普段は、どうやって人と会ってるんですか


うーん…その辺で声かけたり、たまに遠出したり
声かけ。街で?


街で。しかも大半は普通に断られるやつ
そこ隠さないんですね(笑)

遠出のほうの話になって、この夏に松山まで行った日のことを喋った。飲み屋街なのに街灯が白くて道幅も広くて、看板はビルの二階から上にしか出てない。その通りを端から端まで何往復もした夜。二番町から道後まで流れた夜のことなんだけど、初日は二回声をかけて、二回とも一言で終わってる。ウタは松山に行ったことがないらしくて、歓楽街なのに足元が明るい、って話にやたら食いついてきた。
それ、旅行でも出張でもないんですよね


どっちでもない。目的が「歩く」だけだから、説明すると毎回変な顔される
してないですよ、変な顔(笑)

そのあと、スマホの話も出た。この夏にちゃんと会えた子の何人かは、街でも遠出でもなくて、放置してた通知を掘り返したところから始まってる。先週会った子がまさにそれで、三ヶ月前に一回だけやり取りして止まってたのを、深夜に発掘したやつだった。
アプリってやつですか


そう。俺が言うと急に胡散臭くなるやつ

書類出して年齢確認を通すまで、メッセージが一通も動かないんだよ。18歳未満は登録できないやつ
うちも見る側ですよ。若く見える人には、扉を開けたとこで身分証お願いしてます


あ、そっちも確認する側か
します。……お客さんには訊いてないですけどね(笑)

俺は免許証の写真が反射で二回弾かれて、通るまで三日かかってる。それを言ったら、「三日」とだけ繰り返して笑われた。
- 余裕のある大人の子が多い印象だから、変な探り合いが少なくてやり取りが楽だった
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この話をしてる間、ウタの手はずっと動いてた。拭き終わったグラスを棚に戻して、シンクを流して、明日の氷を布に包む。喋ってる相手の手が止まらないと、こっちも変に構えなくて済む。そのうち店の音楽が一枚終わって、次がかからなかった。かけ直さないんだな、と思っただけで、そのまま喋り続けてた。
2杯目からの1時間半
棚の上の時計が目に入ったのは、氷の欠片を拭き終わってしばらく経ってからだった。

え、もうこんな時間?
二杯目、たしか二十一時前でした


一時間半も喋ってんじゃん、俺ら
(笑)今日は暇だったので

何を喋ったか思い出すと、氷の割り方の反省会と、中学で部活を辞めた理由くらいしか出てこない。並べると一個も実のある話がない。実のある話がないまま一時間半保つ相手って、俺の場合そんなに多くない。仕事の話でも恋愛の話でもなく、目の前で起きてることだけで時間が埋まっていった。
連絡先は聞かなかった。単純に、この人は今この時間、仕事をしてる最中だから。俺は勤務中の人に連絡先を聞かないことにしてて、これは相手が断りにくい状況で聞くのが自分でダサいと思ってるからで、それ以上の理由はない。氷を割らせてもらって笑ってた時間と、番号を聞く行為が、同じテーブルに乗る気がしなかった。
客が俺しかいないカウンターに座ったのは、小倉の屋台に一人で引き返した夜以来だった。あっちは先客がもう誰もいなくて、大将が鉄板の焦げをヘラでこそげてるところに瓶ビールを一本だけ頼んだ。ビニール一枚の外はまだ人通りで、鉄板の音のほうがでかい。今夜は扉一枚で街と切れてて、鳴ってるのは氷の音だけ。座ってる形はほとんど同じなのに、耳に入ってくるものが正反対だった。
今週、会って飯まで行けた相手が一人いて、その子とはアプリで知り合った。次どこ行くかはまだ決まってなくて、いまも返信だけ続いてる状態だわ。
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お会計、と言ったら、伝票が木のトレイに伏せて置かれた。チャージと二杯で四千いくら。財布から札を出してトレイに置いたら、ウタが釣りを数えて、両手で返してきた。指先がまだ氷で冷たかった。
二時間、いましたよ


言われて初めて気づいたわ。ごちそうさまでした
椅子を引いて立ち上がったら、座面がへこんだままだった。入ってきたときに一脚もなかったやつが、今は一脚だけある。ウタはもう次の布巾を手に取っていて、俺のいた場所を拭きにかかってた。カウンターの内側には、さっき拭き上げたグラスが一列に伏せて並んでいて、手元だけの照明を一個ずつ光らせていた。
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